発行 / らくだ舎出帆室
2025年7月30日 初版発行
A6判 / 176頁
中心から遠く隔たった辺境の地、熊野の山里旧色川村。この地で、牛耕の復活をめざす農家・外山家が、大事に育ててきた牛を食べることにした。
牛を屠畜場へと運び、肉にしてもらうまで。その肉をみんなで分かち合い食べた日のこと、そして後日談。同じ村に住む著者が一連の流れを傍らで見守り、文章と写真で記録した。
動物と暮らすことも、動物を殺し食べることも、あまりに遠くなってしまった現代。大きな文脈では語られ得ない、山里の小さな営みには、確かな生の手応えが充ちていた。
生活者誰しもの土壌を耕す、らくだ舎出帆室発のルーラル・ノンフィクション。
(版元のサイトより)
「つきつめすぎたら何にも行動できなくなると思うんだよね。例えば、ガソリンで駆動する耕運機を全く使わずに鍬で田んぼを耕せば、二酸化炭素排出量は減るけど、とんでもなく時間がかかって、米以外の野菜を作る時間がなくなるかもしれない。失敗のリスクも高まるから、米を買わなきゃいけない年があるかもしれないし、作りきれなかった野菜を買うことになるかもしれない。だったら、耕運機の力を借りて、ある程度の米を持続的に作った方が、結果的に環境負荷も少ないかなって。環境に負荷をかけないことを大切に考えて、でも、完璧を求め過ぎない。これが『そこそこ』という生き方。音の響きも力の抜けた感じがあって、うちらしいやろ」
——第一章 きくなを食べることにした / p26より
食べるか食べないかという「選択」は遠くにあり、私たちは食べるために必死だった。石斧と黒曜石のナイフで動物と揉み合っていた時代に遠く及ばないまでも、私たちは食べるために力を尽くした。動物を殺して食べることは、持てる力のすべてを注いで取り組むべきことで、疲れ果てて眠るべきことなのだ。
——第二章 きくなの出荷。あまりにも長い一日 / p79より
「私は百姓として、これまで、鶏や鹿や、虫を大量虐殺してきた。過去に起きた壮絶な沖縄戦、今、ウクライナやガザで起きている争い。人も人をたくさん殺している。人権、人のいのちを大事にする時代になったことの良さを思いながら、所詮その程度のものじゃないかとも思う。生まれてどこかで死ぬだけなのだということ。身近な人が死んだり、自分が死ぬとしても、どこかで、散々私も殺してきたしなあと思う。どこでどう育ったのか見えないスーパーに並ぶ牛の肉と、わたしたちが世話をしてきて、みんなが触れ合ったことのあるきくなの肉。見え方が違うのはしかたないけど、スーパーに並んだ肉だって、もともとは、かわいいどこかにいた一個体の牛だったのだということ。逆に言えば、どんなにかわいがってきたとしても、そこにあるのは、ただの牛肉だということ。人間だって同じだよね」
——第五章 動物のいのち、人間のいのち / p146より
[目次]
プロローグ 屠殺、そしてチキンフライの衝撃
第一章 きくなを食べることにした
第二章 きくなの出荷。あまりにも長い一日
第三章 きくなという牛
第四章 肉になったきくな
第五章 動物のいのち、人間のいのち
第六章 そして、次の牛へ
エピローグ 時折、熊に喰われる自分を想像する
表記について
謝辞・参考文献と資料