訳者 / 高橋康也・出淵博・由良君美・海老根宏
河村錠一郎・喜志哲雄
発行 / 筑摩書房
1996年3月7日 第一刷発行
A6判 / 512頁
「われわれの文化の基盤は過剰、生産過剰にある。その結果、われわれの感覚的経験は着実に鋭敏さを失いつつある。…われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない」。
〈内容〉や〈解釈〉を偏重するこれまでの批評に対し、〈形式〉を感受する官能美学の復権を唱えた60年代のマニフェスト。
「批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。解釈の代わりに、われわれは芸術の官能美学を必要としている」。
(筑摩書房のサイトより)
ここに収録した評論、書評、劇評、映画評のたぐいは、私がこの四年間に書いた批評的文章の大部分をなしていて、そこに現われている視点は、発展はあっても、一貫していると自分では思っている。その視点がいかなるものであるかを、ここで要約するのはやめよう。本書のなかの比較的最近の文章はまさにそのことを試みているのだから。
——まえがき / p9より
つきつめて言えば、それに対してわれわれのなしうる唯一のことは、それを心に銘記し、記憶しつづけることだけだ。こうして記憶という重荷を引き受けることができたとしても、それは実用的にはあまり効果があるとはかぎらない。ときには、記憶し思い出すことによって、罪や悲しみが軽減されることもあり、ときには、そのためにかえって悪化することもある。記憶していても、なんの足しにもならないということもしばしばあるかもしれない。しかし少なくとも、記憶しつづけることは正しいことだ、まさにそうあるべきだ、とわれわれは心に感じるではあろう。記憶というもののこうした倫理的な作用は、知識とか行動とか芸術とかの異なった領域を貫いて働くものである。
——『神の代理人』をめぐって / p203より
芸術作品への生き生きした感受性の復権を唱えた批評的マニフェスト「反解釈」は、しかし、あらゆる批評的方法を無効と断じているのではない。〈解釈〉を排しながら、ソンタグは作品は〈描写〉し〈パラフレーズ〉しうるものだという可能性を信じている。たとえば〈作品の外形を真に正確に、鋭く、共感をこめて描写する〉ことは、彼女の認めるすぐれた批評方法の一つである。
——解説 / p491より
[目次]
まえがき
Ⅰ
反解釈
様式について
Ⅱ
模範的苦悩者としての芸術家
シモーヌ・ヴェーユ
カミュの『ノートブック』
ミシェル・レリスの『成熟の年齢』
英雄としての文化人類学者
ジェルジ・ルカーチの文学論
サルトルの『聖ジュネ』
ナタリー・サロートと小説
Ⅲ
イヨネスコ
『神の代理人』をめぐって
悲劇の死
演劇時評、その他
マラー/サド/アルトー
Ⅳ
ブレッソンにおける精神のスタイル
ゴダールの『女と男のいる舗道』
惨劇のイマジネーション
ジャック・スミスの『燃え上がる生きもの』
レネの『ミュリエル』
小説と映画——覚えがき
Ⅴ
無内容な敬虔
精神分析学とノーマン・O・ブラウンの
『エロスとタナトス』
ハプニング——ラディカルな併置の芸術
《キャンプ》についてのノート
一つの文化と新しい感性
解説(高橋康也)