発行 / 講談社
2024年7月23日 第1刷発行
四六判 / 288頁
見ることは、わたしを当事者にする。
共に生きるひとにする。
世界をもっと「よく」見ること。その中に入り込んで、てのひらいっぱいに受け取ること。
この世界と向き合うための哲学エッセイ。
わたしはどうやら、時間が流れていくにしたがって、何かが消えるとか、失われるとか、忘れられるということがおそろしいらしい。
ここに書かれたもの。その何倍もある、書かれなかったもの。でも決してなくならないもの——。
生の断片、世界の欠片は、きかれることを待っている。じっとして、掘り出されることを待っている。
(講談社のサイトより)
すべてがわたしを超えている。わたしすらも、わたしを超えている。暴力的なまでの不可解さ。なぜかよくわからないが、生まれていま息をしている。困ったなあ、とぼんやり思う。ずっとうっすら「こわい」と思っている。
だが、そんな世界から目を離すことができない。世界がわたしにしがみついているのか、わたしが世界にしがみついているのか、もはやわからない。わからないまま哲学科に入って、ひとびとと哲学する場をひらいて、文章を書いて、世界に目をまわして、結局いまもわからないままだ。
——よくわからない話 / p8より
「生きているということは、年をとるということ」
生きているとはどういうことか、という問いで、福島県の葛尾村の小学校で哲学対話をしたとき、ある子どもがつぶやいた。あなたはそれだけ言って、黙った。もう十分だというふうだった。
保存されたものも年をとる。わたしたちはそんな当然なことを、忘れてしまっている。保存したひとも年をとるし、されたものも年をとる。保存されたものは、生きているからだ。
閉じないようにしたい、という上田假奈代さんの構えを、わたしは尊敬している。保存とはどこか、密室のイメージとひもづく。完璧なかたちで保存をし、いくら叩いても、落としても壊れないように密封する。そしてそれを、誰かから誰かに、ひっそりと受け渡す。もしくは、暗く静かで、誰もいない場所にしまっておく。
だが、にぎやかで、よくわからない場所に蒔かれるということも同時に、あってもいいのではないか。その保存の形は、いびつで、不完全で、不十分である。しかし、蒔かれたものは、何度も多くのひとによって踏みしめられ、てごわくなってくる。空気にふれると、呼吸をする。また誰かに踏みしめられ、年をとり、変化をする。
——適切な保存 / p168より
見ることは、想像力の発揮であると作家は言う。ただ目にうつすのではない。もっと、もっと、もっと、見ようとすること。一方的に見ることの暴力性に身をふるわせながら、見ようとすること。そこになにがあるのか、見てとろうとすること。想像力という、手垢のついた言葉が、また息を吹き返す。(…)
見ることは、変えることだ。自分自身を超え、変えていくことだ。世界は不適切に保存され、手渡される。それを、もっと見ようとする。見ることによって、知っていたと思い込んでいたものが変形する。知っていたと思い込んでいた自分が変わる。ならば、どうするかだ。
見るだけで終わることはできない。見ることは、わたしを当事者にする。共に生きるひとにする。そうしたとき、わたしはどうするのかというところまで、問われている。
——見る / p260より
[目次]
よくわからない話
たまたま配られる
誰かの記憶
夏だから
届く
奥
「はずでした」
来て
間違える
枯れ葉
哲学モメント
いい感じ
かわいい
想像と違う
かくれる
適切な保存
はらう
余計な心配
適切な説明
書けない
改行する
手渡す
見る
安藤さん
そのにおい